rumipianoのへっぽこるみ日記。

即興ピアニストrumipiano(岡本留美)のブログです。日々のつれづれ、脳内日記(創作日記)、演奏会情報などを載せています。YouTube公開中(『youtube rumipiano』で検索)。ホームページは「rumipiano ホームページ」で検索するとご覧いただけます。お問い合わせはrumipianosokkyo@gmail.comまで。

まっしろ。

どうも短期記憶がダメだ。

ひとつ入ってはひとつ抜けてゆく。

「この間買ったカーディガン着てみた?」

と友だちに聞かれた。

ん、カーディガン?!買ったっけ?

「ほら、わたしとの待ち合わせの前に買っちゃったって見せてくれてじゃん」

見せたんだ、ほら、って。

誰が見せたんだ?わたしが見せたんだ?!

パラレルワールドに迷い込んだのかもしれない。カーディガンを買ったわたしのいるパラレルワールドに買わなかったわたしが来てしまったのだろうか。買ったわたしも今頃困っていることだろう。

その友だちと多摩地区のローカルインディアに入って向かい合ってごはんを食べている場面が浮かんできた。傍らには確かによく服を買うショップの紙袋がある。袋の中を確かめてみる。ああ、袋の中はまっしろだ。何度見てもまっしろだ。何か手がかりは見えないだろうかとのぞいて見てもまっしろだ。

ええ、どんなカーディガンを買ったんだわたし…

「グレーっぽいやつだったよね?」

グレーのカーディガン?

グレーのストライプのトップスは確かに買った。デニムと一緒に買った。同じ店で。でもカーディガンは…ん〜…あ、あれか!グレーでオレンジの縁取りがあるやつ!!

「そうそう、それ!すごい気に入ったから買っちゃったって言ってたじゃん!」

気に入ってたんだ、わたし。それもすごく気に入ってたらしい…

 

「そーいえばさ、あのレンコンチップス、おいしかったよね」

今度はレンコンチップスかぁ。

うんうん、やめられなくなるよね、あれ。

…ととりあえず言うものまたまた記憶にない。

うわぁ、やっぱパラレルワールドに来てしまったのかわたし??

レンコンチップスの話題はそれまでと相成り別の話題へと移った。

 

友だちと別れて家に帰りお風呂に入る。

シャンプーで頭を洗っていた時、ふと記憶が蘇った。

ああああ!あのレンコンチップスか!!

ローカルインディアでごはんを食べたあと、急遽その友だちの家に行くことになった。その時友だちへの差し入れがてらに買ったのが富澤商店のレンコンチップスだったのだ。

あのことを言ってたのか!!

 

こうやっていろんなことを忘れて行くのかな。

執着のないことからどんどん消えて行くのかもしれない。執着を以前ほどには持てなくなって来たかもな。過去にも未来にも。

それとも今までとはちがう何か別の新しいものを探し始めたのだろうか?

 

最期まで覚えていることってなんだろう?

ちなみにわたしの母方の祖母は、戦争で死に別れたと思っていたが実は生き別れだったことがわかった昔の恋人との純愛に満ちた想い出だった。

わたしは…なんだろう?

セキセイインコの匂いかな。

ベーゼンこわい。

短大の同期と定期的に勉強会をしている。卒業した後から始まった。もう50回近くになる。縁だなぁとありがたく思う。

つい先日も勉強会があった。場所は虎ノ門のB-tech。ベーゼンドルファーショールーム。メインテナンスも行なっている。

虎ノ門にもベーゼンにはあまり馴染みがない。ベーゼンは幾度か触ったことがあったが、「なんかこわいなぁ」というイメージかあった。

さて、会場にあったのはどうやらインペリアルというピアノだったらしい。おっきなフルコン。インペリアル…名前からして威厳があるというかわたしなんかは簡単に威圧される。普通のピアノは大概鍵盤の数は88鍵だが、このインペリアルは低音部に黒鍵も白鍵も真っ黒な鍵盤がいくつか付いていて全部で97鍵ある。

恐る恐る黒い鍵盤を弾いてみる。

どろろろろんとものすごい唸りがした。猛獣でも踏んでしまったのかと思った。空飛ぶ軍用機のような音。さっそくどやされる。

 

勉強会ではひとりひとり弾いたり歌ったりする。自分の番がきた。

ピアノの前に座るとベーゼンが語りかけてくる。

「なんぼのもんじゃい、われえ」

おどけてかわそうとするが左肩の付け根から指先までが満遍なくガクガク震えてきた。今までに経験したことのないものすごい震えだ。何かの病気かはたまた憑依現象か。こんなことは全くもって生まれて初めてだ。

「おさまらないかなぁ」と弾きながら思うものの、一向におさまらない。おそろしやぁ。それでも「中断する」という選択肢はなぜか自分の中にはなかった。震えながらもどうにか一曲弾き終わった。それでもまだ震えている。そのあと即興をやるもまるでへなちょこだった。

自分の番がなんとか終わり、放心状態で席に着いた。そのあとは重たい眠気がきた。ちょっとしたショック状態なのだろうか、我ながらかわいそうに思った。ほかのみんなは平気そうに弾いている。こわくないのかなぁ。

メンバー全員が一通り弾き終わり、時間があったので二周目に突入した。再び自分の番がきた。今度はからだをガチガチに固めて息を詰めるように弾いたらなんとか弾けた。苦しい弾き方で全然音を味わえない。

 

触れるとぽーんと鳴ってくれるスタインウェイとは全く別人だった。まあもともと別人だから仕方ないんだけど。

ベーゼンは厳格で厳粛なタイプ、スタインウェイはこだわりのある遊び人タイプ…などとタイプ分けして自分を慰めてみた。それでもあの震えの恐怖感はなかなか離れない。トラウマにならないといい。虎ノ門でトラウマになる…声に出して言ってみるとなかなか味わいがある。

ちなみにわたしの狭い居室兼防音室で毎晩添い寝をしているのはボストンというピアノ。蓋を開けると流れるような字体でBostonと書いてある。ベビーグランドである。ベビーなのにグランド。宮崎駿監督の『千と千尋の神隠し』の「ぼう」のようなもの、といったらよいか。

「たらよいか」…どんないかだろう。なんだかおいしそう。そう、いかって人の顔を覚えるくらいの知性があるんだってね。ん?たこだったかな?どちらも頭良さそうだもんね。宇宙的な感じがするし。宇宙といえば…セキセイインコは宇宙人のおみやげだとか。確かに不思議なデザインよね、とくにお顔が。おひげみたいなのがあったり、おはなとおくちばしのところがハートマークみたいだったり。しかもとってもいい匂い。そのうえおしゃべりを真似したりアレンジしたりするのよね。巻き舌だってマネするし。ぐるぐるひとりごとを言っているときはきっと宇宙と交信しているのかもね。邪魔しないようにしなくちゃ。

閑話休題。さてそのボストン、多少はスタインウェイの血を引いているらしい。デザインはスタインウェイで製造はカワイ。限られたスペースと限られた予算に見合うグランドピアノでなるべくいい音がしそうなものを調律さんと選んで連れてきてピアノだ。まだ3歳児くらいなのだが、ふと色っぽいとろりんとした音を出す時がある。何時間か弾いた後でね。

 

こわくないベーゼンっているのかな。

皮ごといただく。

皮ごと食べたほうが結構美味しいことがある。

たとえばゴールドキュウイ。

一度皮ごと食べたらもう皮なしで食べる気がしないくらいうまい。味に締まりが出る。身だけいただくと案外やる気のない風味になる。この勢いでグリーンキュウイも皮ごと食してみたがゴールドキュウイにはとんと及ばなかった。グリーンキュウイの皮は中身を守る任務を徹底しているのかもしれないね。

桃も圧倒的に皮ごとの方がうまい。しかも硬めの桃がよろし。初めて皮ごと食べるときは、一口目は「むむう」と思うかもしれないが、それでもさらに皮ごとで食べ続けてみるといつの間にか虜になっている。ただし、繰り返しになるが硬めの桃の場合ね。

柿も桃と同様、硬めの柿を皮ごといただくのがおいしい。身だけ食べてもまあおいしい。けれども熟柿の種付近のコリコリした透明なところはんもうなんともうまい。

ぶどうはレッドグローブは「皮ごと食べられます」とよく紹介されているが、まっことその通り。巨峰は皮ごとだとポリフェノールがガツンとくる感じなのでお好みでどうぞ。マスカットあたりも同様。シャインマスカットは皮ごとでもいけるね。デラウェアはやはりポリフェノールの主張が強いかな。

バナナは皮ごとは厳しいな。まあ皮ごと凍らせたら釘が打てるんだから仕方ないよね。しっかり中身を守衛してるんだね。筋を食するのもさもさしててもちょっとな。みかんの筋はもそうだね。(そうそう、凍らせたバナナをレンジで解凍してハチミツとシナモンをかけてちゅるんといただくのが結構うまいんだよね)

みかんとかオレンジとかあのあたりも皮ごとはちょっとハードルが高いかな。レモンに関してはむしろ皮ごとがいいね。

メロン、スイカは皮ごと食べるもんじゃないかもね。枇杷もかな。イチジクもかなぁ。

梨は好き好きかな。

鮭の切り身なんかも皮もいただいた方がおいしいね。

やさいも皮ごと食べるものも多いね。玉ねぎはちょっと無理かな。

たまごの殻はすごいね。たまに卵焼きに殻が混入していたりするのをガリっと噛んでしまった時のあの感触は黒板を爪で引っ掻くのに匹敵する…って、殻は皮じゃなかったね。

売っている傘の柄のところにビニールがついてるのがあるけど、買った後もそのままにして使っている人を見かけるとひっぺがしたくなるね。皮とは関係ないけど。

肌で動く。

ピアノを弾いているととかく指の動きや手の動きに注意が行きがちになる。そこに神経を集中すればするほど動かなくなることがある。

 

今日整体に行った時先生とたくさんお話ししたなかで、なるほどとポンと膝を叩きたくなったことばがあった。

「肌を意識して体を動かす」

 

からだを包んでいるのは一枚岩ならぬ一枚肌である。お肌のお手入れ、とかいうときは結構意識するもののたいがいそれまでである。

今まさにスマホを操作しているときにも指先近辺を動かすことを意識している。

そう、何かをするときは全身に渡る一枚肌を意識すると体の動き具合も確かに変わってくるようだ。

筋肉だ、骨だ、筋だという前に肌を見直してみよう。

肌感覚で動き肌感覚で判断すれば内面世界的には大概のことはうまくいくような気がする。少なくも頭が強いるやせ我慢などといったものからは大いに解放されて心身がラクになる。

肌感覚を脇に置いておいて頭ばかりを優先させていたら心身が「勘弁してぇ〜」となる。もっと強い言葉を使うなら「破綻してしまう」という感じ。私自身が経験したので断言してしまったが、頭優先でも元気でへっちゃらな人もいるのかもしれないけれど、そこはへっぽこなわたしにはわからないところであり〼。

遠のく自分、またはジャメヴ。

小学校高学年の頃のこと。

校庭の掃除当番だったので、竹ぼうきで校庭をサッサッと掃いていた。

突然ほうきの音が遠のいた。

それとともに自分の感覚も遠のいた。

自分の目を通して見ている見慣れたはずの校庭の風景がガラス越しのようになる。透明のヴェールを頭から被せられたような曖昧な心地になる。

家まで帰るいつもの道もよそよそしく見えるほどぼんやりした気分のまま歩いていた。

家に着いても、家がどうもよそよそしい。

母を見て「これがママか」弟を見て「これが弟か」。会社から帰ったら父を見ても「これがパパか」…うちの電話番号は?住所は??、と確認作業に追われた。

落ち着かない気持ちのまま夜になりどうにか床についた。「一晩眠れば元どおりの感じに戻る、きっと」と祈るように眠った。

朝が来た。ああ、昨日と変わらない。昨日と今日の境目もわからないほどぼんやりして曖昧なままだ。困ったな。

この状況を上手く説明できるほどの語彙は小学生には持ち合わせていなかったので誰にも話さずひとり悶々とした。

風邪みたいにそのうち治るだろう、と淡い期待も虚しく元の自分が戻ってくることはなかった。

中学、高校、大学、フリーター、就職という時期をぼんやりした曖昧な自分のまま生きていくのはものすごく辛かった。自分の感覚や感情が自分のものとは思えない日々が、ほうきの音が遠のいてから10年以上続いた。恋愛しようにも「僕のことどう思ってるの?」などと聞かれた日には自分の気持ちが纏まらなくて核心が乱視で見る月のようになる。気が遠のく。

自分の気持ちなどわかるはずがない。決められるはずがない。

この感覚を誰にどう言っても通じない。「情緒不安定なんだ」というのが精一杯。

医者に行っても説明しきれず取り合ってもらえない。

もう自分で引き受けてどうにかするしかなかった。それはそれは地獄のような苦しみだった。けれどもそんな苦悩は傍目には見えないらしかった。

もう、ぼんやりした自分で生きていくしかない。慣れていくしかない。

孤独な戦いだった。早く元の自分が戻って来てくれ…

 

結局元の自分は今でもどこかに行ったきり。

 

パラレルワールドに来てしまったのか、次元が変わってしまってのか、一度魂が抜けてしまったのか、それとも「乖離」なのか、はたまたゲシュタルト崩壊みたいなものなのか…

答えはわからない。

ただ、こういうことが起こることがあるというのがわかっただけだ。

末代。

末代…家系の末裔。まつだい。

女の人の名前にもありそななさそな、といった字面でもある。「まつよ」さん。

「そんなことしたら末代まで呪われる」「そんなことしでかしたら末代までの恥」などと使われるらしい。

どこかでこんなことを読んだ。

妙齢を過ぎても結婚していない息子と母親の会話。

母:「こんな歳まで結婚しないなんて末代までの恥だわ」

息子:「俺が末代だよ笑」

 

なるほど!絶対誰かが末代になるわけだ。

しかし「お前が末代だからしっかり頼んだよ」などと家長から直々に勅命が下るわけではなさそうだ。

振り向いて気づいたら「あれ、ひょっとして末代じゃん」という感じなのだろう。

 

もしかしたらわたしは末代なのではなかろうか…と感じ始めた今日この頃。弟がいるが彼は生まれながらの自閉症スペクトラム(とかいうのかな、昨今は。弟とは話をしたことがない。話せないからね。でもいろいろわかってるんだよね、いろいろ。)でそういった人間塗れな社会的なものを逃れている。

結婚や子どもというのは自然にできるものだと思っていたがどうもそうは問屋が卸さないらしい、わたしの場合。

恋愛はまあいい。しかし結婚したい、とか、子どもがほしい、とかといった憧れや願望を小さい頃からは持ったことがほぼなかったのではないか。

そういったことは相当に大変そうだな、と身近な例を目にして思っていたフシがある。

フルタイムでバリバリ働きたい、といった意思も持ったことがない。

そういったことは相当に疲れそうだな、と身近な例を目にして思っていたフシがある。

自分の人生時間をなるべく自分のために使って人生を消化してみたいと思っていた。

中学校の卒業アルバムの表紙の裏に何も書いていないページがある。そこにクラスメイトからの寄せ書きがいくつか書いてある。その中のひとつが「この孤独愛者め!!」である。今読むとなかなか秀逸なコメントである。

なんとなくそんな風情を中学生の分際でも醸し出していたのだろうか。全国の末代の方々にもそんな感じだったのか機会があったらぜひ聞いてみたい。

末代には末代なりのお役目もある。

自分の親の面倒を見たり親に見られたらすることだ。それは大事なお役目だからいろいろ思いながらも最後まで責任を持ってとりかからなくてはならない。

その他は自分の世界を掘り下げて地味にいろいろ発掘する作業をしながらぼちぼち働いたり働かなかったりするくらいだろうか。

全国の末代はどんな毎日を送っているのだろうか?