rumipianoのへっぽこるみ日記。

即興ピアニストrumipiano(岡本留美)のブログです。日々のつれづれ、脳内日記(創作日記)、演奏会情報などを載せています。YouTube公開中(『youtube rumipiano』で検索)。ホームページは「rumipiano ホームページ」で検索するとご覧いただけます。お問い合わせはrumipianosokkyo@gmail.comまで。

練習曲なんだよ。

ずっと昔、ある知人の家に遊びに行った。

彼女は恋人と同棲中。

彼女と彼女の恋人と三人でお話ししながらご飯をいただいていた時のこと。

ステレオから音楽がずっと流れていた。

はじめは楽しくお話ししていたのだが、どこでどうなったか二人が同棲について諍いを始めたのだ。

「じゃ、もう別れるしかないね」とどちらかが言った。ちょうど流れてきたのがショパンの『別れの曲』。

ど、どうしよう?!

こんなタイミングで…

なんとかしなきゃ。

 

へっぽこ「あ、この曲は練習曲なんだよ、練習曲!『12のエチュード Op.10-3』!」

彼女「ん?!いまそんな蘊蓄いらないから!」

へっぽこ「…………」

 

『別れの曲』というネーミングはショパン本人によるものではないという。日本に入ってきたときに付けられたものだとか。

「こんなに美しい旋律はもう書けないかもしれない」とショパン本人が言っていたというエピソードも残っている。

ショパンは自分の生徒やピアノ愛好家たちがショパンの曲を弾くための練習曲を結構作っている。

ちなみにツェルニーの練習曲はベートーヴェンの曲を弾けるようになるためにベートーヴェンの弟子であったツェルニーが作ったと言われている。 

 

そういえば羽生結弦が今回のオリンピック(「参加することに意義がある」ってすっかり聞かなくなった昨今であるよ)でショートプログラムで使ったのもショパン。バラードの1番。

まあ時間制限があるから仕方がないのだろうけど、オリジナルの曲をところどころ削って編集している。聴いていると繋ぎ目が来るたびに「うっ」となる。羽生結弦の演技は繋ぎ目はなかったんだけどね。 

想い出の曲。

初めてのデートの車内でかかっていた曲、とか、初めての失恋の時に慰められた曲、とか何かしらに因んだ曲を世の中では「想い出の曲」と呼ぶのだろう。

 

曲自体をねっとりと聞いてしまうたちなのでどうも「想い出」より「曲」の方に比重がいってしまう。 

けれどそんな自分にも「想い出の曲」がある。

サザンオールスターズの『愛の言霊』だ。

 

音楽系短大の社会人入試に備え、毎日8時間くらいピアノの前に座っていた時期があった。

そんなある日、お尻の穴のあたりに違和感が生じた。一時的なものかとそのままにしていたがどうもよくない。

そう、日本人に多いと言われる例のアレになったのだ。

「中の」「外の」とか言うアレである。

ちょうど二月の今時分の既に入学が決まっていた頃。

これからもたくさんピアノを弾くことになる。

そんな時に更にアレが悪化したら厄介である。

意を決してわ京王相模原線沿いにある病院に行く。

明るい感じの待合室に老若男女がかろうじて座っている。

そう、ここではみな同士だ。

心なしか安心した雰囲気に包まれている。

 

診察の順番が回ってきた。

パッと患部を見て「これ切っちゃいましょ!」と医師は明るく言い切った。看護師もその横で微笑みをたたえている。

えーっ…お薬で様子見ましょう、じゃないんだ…

心の準備が全くないまますみやかに処置室に連行される。

白い台の上にうつ伏せに寝かされる。

先ほどの医師登場。

「レーザーであっという間に切っちゃうからね」と軽く言う。

うつ伏せの頭の至近にCDデッキが置かれた。スピーカー側がこちらに向けられている。

「この曲終わる頃にはもうおわっちゃってるから」

 

♪うまれくるっせりふとわっ、あおいほしのそわっ、なつのしらべとわっ、あいのことだま…♪

 

曲が終わった頃には処置も全て終わっていた。

看護師が「少し休んでくださいね」と言った。殺風景な処置室にそのまま取り残された。

今度はBGMはない。

 

しばらく休養して待合室に戻る。

会計を済ませ帰路につく。

行きの軽やかな足取りを再現するのは最早至難の技であった。

傷口を気遣いながら最寄りの駅までそろそろ歩く。

やっとのことで電車に乗れたがとても座席には座れない。

ガラガラの車内を横目に窓際に佇む。

曇り空の街が後ろへ流れていく。

観葉植物のぼやき。

とあるクリニックの待合室。

座った椅子の横に観葉植物。

150センチくらいの背丈だろうか。

そいつがぼやいてくる。

「いや〜ここは居心地悪くてね」

自然のものが少ないもんね。

「いや、そうじゃなくて一緒にいるヤツとどうも気が合わなくて…」

なるほど、もうひとり向こうに別の観葉植物がいる。

背丈は同じくらいだ。

 

診察が終わり待合室に戻る。

今度はもうひとりの観葉植物の側の椅子に座る。

葉っぱを触ってみる。

「触るんじゃねぇ」

葉っぱをじっと見る。

「見るんじゃねぇ」

…なるほどぉ。こいつはちょいととっつきにくい。

 

それにしても、結構喋るんだなぁ、植物も。

やぎさんゆうびん

童謡『やぎさんゆうびん

フォーククルセダーズも歌った名曲。

 

くろやぎさんからのお手紙をしろやぎさんが読まずに食べちゃう。

しろやぎさんは「さっきのお手紙ご用事なあに」とくろやぎさんにお手紙書いたら、それをくろやぎさんは読まずに食べちゃう。

くろやぎさんは「さっきのお手紙ご用事なあに」としろやぎさんにお手紙を書く。

 

この歌を幼稚園の頃に習った。

やぎが紙を食べられるなら自分も食べられるはずだ、と5歳児は思った。

5歳児「この紙(新聞紙)食べていい?」

5歳児の母「いいよ」

5歳児「この紙(ツルツルした広告)食べていい?」

5歳児の母「それはやめときな」

…と、何種類かツルツルしていない紙を食べてみた。

思ったより美味しくなかった。

それ以来紙は食べていない。

 

しない方がいいと思います。

メルヴィルの『書記バートルビー』を光文社古典新訳文庫で読む。

 

職場の所属長からの指令を「それはわたしがしない方がいいと思います」と静かに悉く拒否し続ける男が出てくる。

普通の食事もとることを拒む。

普通や常識や忖度を拒む。

その先にたどり着いたのは…

 

現在を観に行く。

府中市美術館に『絵画の現在』を観に行く。

つい古いものに目がいってしまうのでたまには新しいものに触れてみよう。

 

何人かの若いアーティストの展示。

誰の作品、とか、どんなタイトル、とかあまり情報を持たずにただ作品に向き合ってみよう。

 

色が多くてパステルとか明るい色が目立っている。画風に関係なく翳りの少ない感じ。さらりんつるりん。滅菌されてるのに不安。

そんな感じ。

 

さらりんつるりん除菌済み、ってのが「現在」なのかな。

 

その中でちょっと手触りを感じたのが、津上みゆきの風景画。

ぱっと見前面は抽象の現代アートっぽい。

よく見ると背景に何かが埋まっているのが見えてくる。

自然や町が。

 

「現在」というフィルターだけをみているひと、「現在」というフィルターの向こうにある過去の流れだけをみているひと、その両方をみているひと、どちらもみていないひと、全く別のものをみているひと…

みんな。いろんな見方をしている。誰一人として同じものを見ていない。そんなひとびとがいつの時代も同じ時を生きているのだろう。その時々の最大公約数が時代の雰囲気や風土を作り上げているのかもしれない。最大公約数は自然に生まれているのか、意図的に作られているのか、偶然と必然の賜物なのかはよくわからないけれど。