小学校高学年の頃のこと。
校庭の掃除当番だったので、竹ぼうきで校庭をサッサッと掃いていた。
突然ほうきの音が遠のいた。
それとともに自分の感覚も遠のいた。
自分の目を通して見ている見慣れたはずの校庭の風景がガラス越しのようになる。透明のヴェールを頭から被せられたような曖昧な心地になる。
家まで帰るいつもの道もよそよそしく見えるほどぼんやりした気分のまま歩いていた。
家に着いても、家がどうもよそよそしい。
母を見て「これがママか」弟を見て「これが弟か」。会社から帰ったら父を見ても「これがパパか」…うちの電話番号は?住所は??、と確認作業に追われた。
落ち着かない気持ちのまま夜になりどうにか床についた。「一晩眠れば元どおりの感じに戻る、きっと」と祈るように眠った。
朝が来た。ああ、昨日と変わらない。昨日と今日の境目もわからないほどぼんやりして曖昧なままだ。困ったな。
この状況を上手く説明できるほどの語彙は小学生には持ち合わせていなかったので誰にも話さずひとり悶々とした。
風邪みたいにそのうち治るだろう、と淡い期待も虚しく元の自分が戻ってくることはなかった。
中学、高校、大学、フリーター、就職という時期をぼんやりした曖昧な自分のまま生きていくのはものすごく辛かった。自分の感覚や感情が自分のものとは思えない日々が、ほうきの音が遠のいてから10年以上続いた。恋愛しようにも「僕のことどう思ってるの?」などと聞かれた日には自分の気持ちが纏まらなくて核心が乱視で見る月のようになる。気が遠のく。
自分の気持ちなどわかるはずがない。決められるはずがない。
この感覚を誰にどう言っても通じない。「情緒不安定なんだ」というのが精一杯。
医者に行っても説明しきれず取り合ってもらえない。
もう自分で引き受けてどうにかするしかなかった。それはそれは地獄のような苦しみだった。けれどもそんな苦悩は傍目には見えないらしかった。
もう、ぼんやりした自分で生きていくしかない。慣れていくしかない。
孤独な戦いだった。早く元の自分が戻って来てくれ…
結局元の自分は今でもどこかに行ったきり。
パラレルワールドに来てしまったのか、次元が変わってしまってのか、一度魂が抜けてしまったのか、それとも「乖離」なのか、はたまたゲシュタルト崩壊みたいなものなのか…
答えはわからない。
ただ、こういうことが起こることがあるというのがわかっただけだ。