へっぽこるみ日記。

毎日毎日日が暮れる。半期に一度の即興ピアニストのつれづれ。

原風景徒然。

物心ついたあたりから幼稚園の年長までを町田駅から神奈中バスで20分ほど行く団地で里山とコンクリートアスファルトに囲まれて過ごした。

 

幼稚園も公園も友達の家もおやつのメロンアイスを買う店も歯医者も小児科も団地の中にあったので余程のことがないと団地からは出る必要がなかった。銀行も郵便局もあった。なぜか埼玉銀行が入っていたような覚えがある。銀行の前で一万円を拾ってママに渡した覚えがある。その一万円の行方は覚えがない。

障がいがあった弟の世話にかかりきりのママだったので、歯医者には3歳くらいからひとりで通院していた。すぐ歯茎がぷくっと腫れるのでその度に注射の針で膿を出されていた。診察室で親とともに来院しその上ギャーギャー泣いている小さな輩たちを見ると、いちいち泣くなバカと冷めた目で見ていたのを覚えている。

余談だが、小学校高学年の頃に学校で「知能テスト」というものを一斉に受けさせられた。その結果で精神年齢が20歳と出たらしく三者面談の時に担任から心配されたことがある。

 

団地暮らしで幼少の頃から土よりもアスファルトに馴染んでいてせいか、今でも出来立てホヤホヤで湯気の立つアスファルトの匂いが大好きだ。水分とアスファルトを配合したようなあの芳香がたまらない。思いがけず舗装工事に出くわすとつい深呼吸をして味わってしまう。

 

自分が住んでいた団地の棟の真ん前に急な増水に備えた調整池があった。池の周りは緑の金網が張り巡らされていた。夏になるとよく蛙がゲコゲコ言っていた。夜の調整池を窓から眺めるのが危険な香りがして好きだった。

 

どうもタワー状のものに目がないのだが、多分これは団地時代の給水塔との出会いのせいだろう。ノスタルジーと繋がったものにはどうも抗えない。

青空にすっと伸びる白いフォルムを下から抱きつきながら眺めてはうっとりしていた。今でも給水塔に出会うとうっとりしてしまう。流石に抱きつくことはない。

 

壁面に1-18などと大きく数字が書いてある団地の四角い建物自体にも独特な趣がある。数字がいくつまであるのかワクワクしながら数字を追いかけた。

団地は1街区から3街区まであった。

自分の家がある1街区から追い始め、2街区、3街区と進むうちに迷子になった。「知らない家から電話がかかってきて『お宅のお子さんが来ていますよ』って言うから取りに行ったのよ」と母がその当時のことを回想していた。

 

団地から出るのは、小田急線に乗ってお出かけするときか、小田急デパートに行く時か、耳鼻科に行く時くらいだった。

家出をしたことがあった。何かが気に食わず親と言い争いをした(恐らく第一次反抗期だったのだろう。因みに第二次反抗期は二十歳代の暮方あたりだったように思われる)。お小遣いもまだ持たされていない親の庇護下の小児ではバスに乗ったりもできず、団地の中を三輪車でグルグル徘徊したり三輪車をひっくり返して車輪に石や枯れ枝を入れたりしてカラカラまわしたり(これは「やきいもやさんごっこ」と命名されていた)して時間を潰し、空が暗くなり星も出はじめて仕方なく家の玄関のブザーを押したのであった。

未だに団地に出くわすと散策してしまう。団地には緑や陽だまりが多い。ベランダが南向きでお風呂にも窓がある。マンションにはない醍醐味だ。

『団地日和』というDVDを持っている。団地に住む奥さんが主役ではない。主役は団地だ。団地の中でもスター的団地たちをほんわかした打ち込みっぽいボサノヴァサウンドにのせて紹介している。

DVDのおわりに『住宅公団の歌』というのが収録されている。日本住宅公団の団地への夢と野望と幻想に溢れた隠れた名曲だ。UR都市再生機構となった今、『住宅公団の歌』はどうなっているのだろうか。

津幡夫婦のドキュメンタリー『人生フルーツ』を観ると住宅公団の団地開発の負の面も知ることができる。

団地で多感な季節を送ったせいか、今でもふとあの団地を訪れることがある。同じくあの団地に住んでいたことがあるという小林稔侍も時々訪れるとどこかで聞いたことがある。