上野の東京文化会館にピアノを聴きに行く。友人と上野で待ち合わせて黒船亭でお昼を頂き文化会館に向かおう、という計画だった。
新宿に着いたとき友人からメールが入る。
「御徒町で待ち合わせして上野までぶらぶら歩くのはどう?」
おかちまち?
山下洋輔が5拍子を数えるとき「『お・か・ち・ま・ち』って数えるといい」っていってたっけな。あの「御徒町」か!ってどうやって行くんだ?総武線とか京浜東北線とかにありそうだな。地下鉄の有楽町線にもありそうだな。でも新宿からどうやって行くのだろう?
御徒町って何線?とメールした。
「上野の次だよ」
ほほう。そうであったか。
山手線なのね。
上野の次なのね。
初めて知ったよ。
上野までしか乗らないからな、いつも。
御徒町に着くと、駅前の道路がなんだか物々しい。緊急車両がいた。味噌ラーメン屋のビルから煙が出ていた。細いビルの密集している地帯。火事による異臭が付近に垂れ込めていた。怖かった。タオルハンカチで鼻を抑え上野方面に急いだ。
黒船亭でコートとスヌードを預けたとき、あの匂いに燻されていたのに気づいた。
黒船亭は何を頂いても美味だった。食事の後のパウンドケーキも中身がぎっしりで後味も大変良かった。
それから東京文化会館へと向かう。
岡田博美のピアノリサイタル。
ほぼ毎回聴きにいく。
そして毎回圧倒される。
これでもか、これでもかと圧倒してくる。
「ヒロミー!」と黄色い声をあげたくなる(黄色い声をあげてもいい年齢制限を大幅に超えているのだろうが)。
そのうまさたるや悪魔的であり変態的であり神的である。
ステージにさっと登場し、するりとプログラムの最初の曲であるJ.S.バッハの『半音階的幻想曲とフーガ ニ短調』を弾き始める。するとまもなくわたしの左目の視界の端でホールの壁際をすっとステージの方へ向かうかげのようなものを捉えた。姿はなかった。
この世離れをしたようなフーガが終わり、ベートーヴェンのピアノソナタ『ワルトシュタイン』が続く。聴いているうちに瞑想状態のようになる。
休憩後の始めはリストの『超絶技巧練習曲 第9番 回想』。聴いているうちに酩酊状態のようになる。
そして、リャプノフの『超絶技巧練習曲第10番 レスギンカ』。聴いているうちに金縛りにあったようになる。
次は、マラフスキの『ミニアチュア』。超絶技巧練習曲が続いたあとの小休止のような趣きなのだろうが、聴いているうちに魂ごと吸い込まれていく。
ラストはリスト『ドン・ジョバンニの回想』。もうダメだ。凄すぎて笑うしかない。
人間はあまりに凄いものを見せ続けられると笑うしかなくなるのだろうか。
アンコールはまずダカンの『かっこう』。シンプルな曲なのにこれでもかと離れ業を見せてくる。天鵞絨のような音のつながり。美を超えている。神だ。
そしてブラームスの『ハンガリー舞曲第6番』。またまた変態的。愉快で死にそうになった。
最後がドビュッシー『月の光』。
これを持ってきたかぁ!!
意識が飛びそうになる。
そして「もう弾かないよ」と言うかわりに、ぱたっとピアノの蓋を閉めた。おちゃめさんなポーカーフェイスだ。
岡田博美は派手さはないが実直でしかもスーパークールな相貌でしれっと超絶技巧をこれでもかこれでもかこれでもかと嬉々としてかましてくる。その上さらに表現がまたなんともうまいのである。
弾いているときは静かに熱く、弾いた後は淡々と舞台袖に引き上げていく。
神であり悪魔であり変態である。
本当に魅力的なピアニストだ。
岡田博美のピアノを聴くたび思う。
生まれてきてよかった。