こんなに暑いのに暦は立秋。
なるほど夜には虫の声に秋の気配が宿るようになった。
時は過ぎて世界は回る。いや、時は過ぎるのではなく砂時計のように積もって重なっているのだとも言われている。
まあいずれにしてもどうもこのところなんだかつまらないなぁと思っていた。
ああ、つまらないつまらない…と思いながら平日昼間の各駅電車に乗っていた。
前の座席にメガネをかけた男が座っていた。
年齢不詳、といったところか。
すると、その男が手持ちの黒い年季の入った革鞄から徐に眼鏡拭きを取り出した。
それから眼鏡を外した。
さらに片方の目玉を外した。
そして眼鏡拭きで目玉を拭った。
ほほう、そう来たかぁ…
「眼鏡拭きで目玉を拭くんですか?」
考えるより先に言葉が出ていた。
「ああ、これ?眼鏡拭きだと思うでしょ?違うんだな。目玉拭きなんだ。」
とドヤ顔で男は答えた。
「へぇ!目玉拭きなんてあるんですね!眼鏡拭きとどう違うんですか?」
「触ってみればわかるよ」
男が目玉を拭いた布をうかうかと触っていいものか躊躇した。
「あ、そんなこと言われても触りにくいよね。でも触ると一目瞭然なんだけどな」
こういう時は一目瞭然って言わないんじゃないかと思ったがそれよりも目玉拭きなるものが気になった。
「では失礼して…」
触って見ると、天女の羽衣のように柔らかで滑らかだった。羽衣を触ったことがないがそう思った。
「ね、凄いでしょこの触感!」
と屈託のない笑顔で男は言った。
目玉を丁寧に拭って眼窩に戻し、今度はもう片方の眼球の清掃に取り掛かった。
一連の動作を食い入るように見ていた。
「こうするとね、目をつぶった時にウヨウヨ見えるやつとかが消えるんだよ」
それはいい、と思ってしまう自分がいた。
両の眼球を拭き終えた男は目玉拭きを鞄にしまって、また違う布を取り出しその布で眼鏡のレンズを丹念に拭った。
「目玉だけ拭いても眼鏡のレンズが汚れてたら案配がよくないもんね」
「ですよね…」
男は西調布の駅で降りて行った。