森見登美彦の『熱帯』を読んでいる。
平成的なカバーを外すと昭和的な装丁が現れる。
その本の中にこんな一節が出てくる。
「学生時代、ある専門図書館で学位論文のための調べ物をしていた頃、膨大なカードが詰まった棚を調べたことがあります。当時はまだ電子化されていない目録を調べるためには、実際に現地まで出かけ、手作業でカードを検索する必要があったのです。」
大学の頃、ゼミのレポートや卒論を書く時など事あるごとにわたしもこんな作業をしていた。
それがいつのまにかもう昔話になり、あえて説明が必要になってしまったとは。
ネットが社会に普及したての頃、自分が求めている情報がすぐ手に入る便利さに感動を覚えた。足を運ばなくても世界がこちらにやってくる。布団の中で用が足りる。
しかし、それとともに情報に接した時の感激や感触が鈍く薄れてきた。手触りや肌感覚を伴わない情報はつるつるしていて脳に染み込む前に滑り落ちて行ってしまうのだ。それが常態化すると結果として記憶力が退化していく感覚がある。
半ば強迫的にアップデートが繰り返される世の中で、馴染みのあるものがどんどん追いやられ馴染みのないものに変えられていき、私たち自身にもアップデートを求めてくる。それが楽しくて仕方ないと思えればいいのだが、「こんなに落ち着くことのない不安の連続が文明社会を生きるという事なのだろうか。他の生物も同じような思いをしているのだろうか。そんなふうに思うのは歳のせいなのだろうか…」などと考えてしまうんだなぁわたしは。
また人間に輪廻転生させられてしまうのだろうか。
ふぅぅぅぅ。