rumipianoのへっぽこるみ日記。

即興ピアニストrumipiano(岡本留美)のブログです。日々のつれづれ、脳内日記(創作日記)、演奏会情報などを載せています。YouTube公開中(『youtube rumipiano』で検索)。ホームページは「rumipiano ホームページ」で検索するとご覧いただけます。お問い合わせはrumipianosokkyo@gmail.comまで。

表すということ。

言葉を使うのはどんな時?

伝えたい何かがある、とか、表現したい何かがある場合。

実際ぴったりとした言葉を当てはめるのはなかなか難しいこともある。受け手と自分とでは同じ言葉であっても使い方も同じとは限らないからである。

反対に、妙に言葉の合う人もいる。そういう人は一緒に話をしていても安心で楽しい。

 

何かの要因で先天的或いは後天的に言葉が話せない場合は、言葉を話せるひとが多数を占める世界ではもっと大変な思いをしているのだろう。

 

音で表現する時は言葉を介在しないので楽だ。何か表したいことを音にしていることもあれば、音のイメージ(音をつなげたフレーズや和音のつながり)自体をそのままポンと出すだけのこともある。後者の方が圧倒的かもしれない。いってみれば、音が音を呼ぶという感じに近い。

 

音で表現するためには、いつも音を意識して過ごしている。努めているわけではなくそうしていた方が楽しい。

そして、楽器の練習。

頭の中でなっている音を瞬時に鍵盤に移すためには大切なこと。だけどなんとなくかったるかったり他のことに気を取られている日は弾けない。それが日単位のこともあれば週単位のこともある。そこはなるべく無理しない。

頭の中で音が鳴るようにするには音に触れたり音のことを考えている時間を多く持つ。まあ、時には読書で本の世界に耽溺することもあるけれど。

 

そして…ボンヤリと散歩したり、お布団の世界に埋没したり、インコと交流したり(ちなみに今日11月15日は「いいインコの日♡」)、体調の悪い家人のボヤキを聞いたりなど日常生活の些事が介在する。

 

そんな諸々がひっからまって表現になるのかもしれない。

 

 

 

 

車とギター。

車が運転できたらいいなぁと思う。

そしたら滝とかダムとかにすぐに行けるのに。

好きな音楽を車内に流してスイスイ好きな場所に行けるのに。

 

車の免許は持ってる。

マニュアル免許が基本の時代。

教習所では当時は教習を受けるたびに、教習簿といわれるものにスタンプを押してもらうシステム。

第1段階の「右折」の項目。

右に曲がる前にどうしても車を右に寄せられないのである。ここで6時間ダブった。

第2段階以降もぼちぼちダブって、仮免の試験もダブった。(路上は不思議と試験も一発合格。ちなみに運転免許試験場で受けた筆記試験も同様)

そんなこんなで教習簿のスタンプ欄がみるみる埋まった。講習時間が総計で45時間に上った。

「教習簿が2枚目に行かなくてよかったね」と受付のダミ声のおばちゃんに言われた。ポイントカードとはちがってスタンプは少ない方がいい。

「運転免許証は証明書として使うだけにしておいた方が無難だ」と教習所の先生に言われ、自分でもそうだなと思った。

そういえば、路上教習で公道を走っている時に「ああ、この前後の車たちの流れに沿ってこのまま運転していないといけないんだな」とふと思って息苦しくなったことがある。

教習所を出て以来今まで一度もハンドルを握ったことはない。

免許取得は大学2年の時なので20歳ぐらいの頃。

この年齢であれば教習所で平均27時間くらい教習を受ければ取得できると言われていた。

それが45時間もかかったのである。

いまでも時々車の運転をしている夢を見る。

ああ、専属の運転手が欲しい。

 

ギターが弾けたらなぁと思う。

 

コードはわかるのにコードのポジションがどうしても覚えられない。

ピアノとなにがちがうって、同じ音がいろんなポジションで出るところが決定的にちがう。

ピアノは音と鍵盤の関係は一対一なのでシンプルだ。頭の中で音の構成がわかっていれば鳴らしたい音はすぐに出せる。

一方、ギターは「ん?この場合どっちのポジションを使うんだ?」といちいち考えなければならない。これがもどかしい。頭の中にはすでに出したい音がスタンバイしてるのというのに。

ギターが弾けたら持ち歩いてどこでも弾けるしいいのにな。ピアノは持ち歩かないからな。ロールピアノじゃ役不足だし。ピアニカはピアニカだし。

かといってギターを弾いている夢は見たことがない。

専属のギタリストもいてもいいけどいなくても今のところはやっていける。

 

車を運転する人もギターを弾く人もあんなにも見かけるのになぜわたしには出来ないのだろう?

なにかが決定的にかけているのだろう。 

冬支度。

木々が色づく。

枯葉が舗道を埋める。

そんな風景を眺めたり冷たい風に吹かれているうちに、いつのまにか魂が半分抜けたような心持ちになる。

心身ともに冬支度。

こんな原始的な感覚のままに日々が送れたらと思う。

無理にアラームで起きることなく、無理に寒い朝に出かけていくことなく、自然にしていられたら、と。

ヒトが近代国家で生きていくにはいろいろ必要だ。

毛もあまり生えていないから洋服を着なくちゃいけない。靴も履かなくちゃいけない。ほどほどに愛想よくしなくちゃいけない。いろんなことを覚えなくちゃいけない。生活費も調達しなくちゃいけない。燃費が悪いから栄養も頻繁にいろんな種類をとらなくちゃいけない。おまけに誕生だ3歳児健診だ幼稚園だ保育園だギャングエイジだ反抗期だ思春期だ進学だ就活だ就職だ納税だ選挙だ結婚だおひとりさまだ非正規雇用だ正社員だ子育てだ住宅ローンだミサイルだ更年期だ不倫だ離婚だアンチエイジングだ血圧高めだ骨密度だ介護だ終活だ孤独死だと目白押しだ。

ヒトほど自然の摂理に反した動きをしている動物はいないのではないか。

文明国と言われる国に暮らすヒトは尚更そうなのかもしれない。

セキセイインコと比べたってもう雲泥の差である。

セキセイインコは顔中ステキないろの毛が生えてて女のコは可愛いくて男のコはイケメンだから化粧もしなくていいし、シワやシミも目立たない。

もともとステキなデザインの羽が生えているから洋服も必要ない(もともとはグリーンと黄色と黒。そこからヒトがいろいろちょっかい出してあんなにいろんなデザインのセキセイが出現したがのではあるが)。

換羽もするからいつもホワホワで新鮮だ。

お手入れもそんなに難しそうではない。尻尾の付け根から油のようなものが出るらしく、そこを嘴でつついて羽のお手入れを楽しそうにしている。

歯がないから虫歯にも歯肉炎にもならない。寝入り端に上の嘴と下の嘴をぎょりぎょりさせて歯磨きならぬ嘴磨きを気持ちよさそうにしている。

肩もないから肩凝りもしない。頭痛もなさそうだ。

色覚もヒト以上に見える(特に緑が)。

声もいい。

オスはおしゃべり(囀り)がうまいし、モノマネもうまい。アレンジもうまい。(「ピッコロリン」「ピコちゃん」の2つを教えたら「ピッコロリンちゃーん」と勝手にくっつけることもあれば、「あるところに」と教えたら「ろろろろろろ」にしてしまうくらいアバウトな時もある)。九官鳥は教えたものを完全にコピーするらしいが、セキセイインコはざっくり覚えてあとは好きにアレンジするらしい。

マルコス・ヴァーリとかモーツァルトとか聴いてノリノリになることもある。

概ねいつもご陽気。

それに結構個人主義

 

もし生まれ変わったらもうヒトはいいや、と思う秋の黄昏。

冬籠りの季節。

 

むちゃぶり

今、部活のあり方が問題になっている。

部活指導の名の下に教員(生徒もかな?)の土日が潰されたり、「何事も経験だから」と経験もないのに顧問にさせられ指導させられたり…

 

中学生の頃、ちょうど部活全入の時代だった。部活に必ず入らなければいけないのである。

入りたい部がなく大変困ったので、活動実態のあやふやな部活をなんとか探り当てた。

陸上部。

活動は週2日ぐらい。

活動内容は校庭の砂場で棒倒し。

細い枝を拾ってきて砂で山を作りそのてっぺんにその枝をぐっと刺し、ジャージを着た部員(全員女子)が順番に山裾の砂を両手で掻き分ける。棒を倒した人が負け。負けても「あーあ」ぐらいで、また新たに山を作って棒を刺して再開だ。そうして部活の終わりの時間まで

凌ぐのである。

ある日、珍しく顧問が現れ「試合に出るぞ」といった。仕方なく種目を決めてとりあえず適当に練習をしていた。その間棒倒しはお休みだったかどうかは残念ながら記憶にない。

初めての試合である。部員の思いは「やだな」一色だった。

それから数日後、顧問が再び現れ「手続きのミスで試合に出ないことになったぞ」。

一同安堵し、棒倒しを再開した。

しかし、避けられないものもあった。体育祭の部活対抗リレーである。これは仕方ない。リレーの順番だけ決めて多少は練習をしたかもしれないししなかったかもしれない。

体育祭当日、試合用のユニフォームを渡された。初めて見た。黒の上下(上には白抜きで何か文字が書いてあった)。袖なしに短パンだ。

棒倒しで鍛えた部員たちのカラダが黒の上下に収まると妙に艶かしいのである。ぽっちゃりグラマーとほっそりグラマー。

さて、部活対抗リレーがスタートした。バスケ部だのバレー部だの花形の部活のメンバーたちが颯爽と走る。その間を我ら陸上部のグラマー集団が胸元を揺らしぽよんぽよん走る。結果、順位は最下位くらいだったが注目度はナンバーワンであった。

 

中学教諭の頃、女子テニス部を若い新任ということで持たされた。テニスなど全く経験がない。断りきれず、顧問として名前だけでもいいやと思いしばらくは練習も見ずにいた。すると男子テニス部のバリバリの顧問の先生が「ぼくも教えますので一緒に頑張りましょう。まず、ジャージ着てラケット持ちましょう」。

仕方なく近所のスポーツ用品店へ行く。それだけでもスポーツ嫌いのわたしにとっては大変な勇気のいることであった。店に入るとスポーツっぽい人が出てきた。ああ、もうダメだ。でも買わなきゃ、ジャージとラケットを…ジャージなんて触るだけでゾクっとする。

フラフラになりながらやっとの思いでジャージの下とラケットを買ってそそくさと店を退散した。

さて、女子テニス部。幸いなことにそれほど熱い生徒がいなかった。「勝ち負けとかじゃなくて楽しくほんわかやろうね」と言い含めていった。

けれども「試合があります。出てみましょう」と例の男子部顧問に言われ、女子部員たちに伝えると「出てみたい」と言うので無下にもできず、試合出場という運びになった。

 

さて、ある試合での出来事。

日曜の朝っぱらから試合の引率に行った。

中には試合に出るのに気乗りしない部員もいた。

町田の南部から電車やバスを乗り継いで学区域からは程遠い日野の会場にギリギリ到着する。

すると受付で衝撃の事実を知らされる。

「エントリーされてないですよ、おたくの学校…」

絶句した。

たしかにファックスでエントリーシートを送信したはずだ。

どちらの手違いがはっきりせず、かといって試合出場は運営の都合上もう無理だという話になった。

どうしよう。

ジャージを着せてこんなところまで来させたのに…部員たちになんて言おう…

 

「ごめん、手違いで試合にエントリーされてなかったんだって…」

部員たちは思っていたより穏やかに受け止めてくれた。中にはホッとした部員もいたようだった。

けれどもこのまま帰るのはしのびない。

その時咄嗟に浮かんだ三文字…

『高 尾 山』

そうだ、高尾山に行こう!!

「ねぇ、今から高尾山にケーブルカー乗りに行っちゃおうか?」

とジャージにラケット姿の部員たちに言うと

「いきたいいきたーい」

 

一同、日野から高尾山へと向かった。

道中どんな様子が心配だったが、部員たちの表情は一様に楽しげだった。

まだミシュランガイドに掲載される随分前だったので、東京の奥座敷といったいい風情があった頃だ。平日の午後などにふらっと訪れると、いわくありげなカップルがポツポツと歩いているようなお忍び感さえ漂っていた。

その日はお天気もいい日曜日だったように思う。

「たのしかったねぇ〜」

と言ってその日は部員たちとお別れした。

部員たちの道中の交通費やおやつ代はすべてわたしのポケットマネーで調達したけれど、すごく楽しかったな。

 

今なら各方面からの苦情や叱責の嵐が吹き荒れたことだろう。

まだまだ緩やかな時代でありましたとさ。

 

こどもにとってもおとなにとっても窮屈で苦しい場になっていないだろうか、学校が…

自慢。

ずっと前のお話。

友人と喫茶店に入った時のこと。

店員が注文を取りに来た。

ケーキセットを頼んだ。

すると店員が

「コーヒーか紅茶、どちらにしますか」

と聞いて来た。

「紅茶でお願いします」

さらに

「紅茶はレモンとミルク、どちらにしますか」

と聞いて来た。しかしどういうわけか

「メロンでお願いします」

と答えてしまった。

レモンとミルクの語感がまざってメロンになったのだろう。

「あ、メロンじゃないですよね、ハハハハハ、レモンで」

といい直したが、厨房にオーダーを伝えに行くその店員の後ろ姿の肩が小刻みに震えていた。必死に笑いをこらえているのだろう。

すると厨房の方から数人の笑い声が聞こえた。

ウェイトレスが堪りかねて話したのだろう。

相当ウケたようだった。

 

注文したケーキセットを今度は違う店員が運んで来た。そいつも必死に笑いをこらえているのがわかった。

「笑っていいんですよ」

って言ってあげた。

 

今思うと、そんなにウケたならいっそのこと紅茶にメロンを入れてくれたらよかったのに。マスクメロンでもプリンスメロンでも少しはあっただろうに。パフェ用のとか。

 

もう鬼籍にお入りになられた赤瀬川原平氏の歴史的名著『老人力』。

耄碌したりやヨレヨレになることを「老人力」と定義する画期的な概念を打ち出した本である。

「きみもかなり老人力がついてきたね!」などとお互いに褒め合い、自慢し合うという世界観を世の中に提示したのである。ベストセラーにもなった。

その続編『老人力自慢』にこのお話が載っている。「老人力」を公募し、赤瀬川氏らによる選考に残った作品をまとめたものである。応募したら選ばれちゃったのである。

出版元の筑摩書房から老人力テレカ(テレフォンカード)と赤瀬川氏の直筆サインが送られてきた。とっても嬉しかったのを覚えている。

 

ちょっとした自慢である。

 

そしられる。

曇りのち晴れ 切り花を買おう 行為の対価にするよ 愛の名にそしられるよっ!(キリンジ『甘やかな身体』)

 

そしられる…ソシラレる…「ソシラレ」

 

確か広瀬香美が「みそしる」と聞くたびに「ミソ」という音が頭に流れる、みたいなことを本で書いていた。

絶対音感の世界である。

楽音(「音楽」をひっくり返したギョーカイ用語ではなく、楽器の音全般を表す)だけでなくノイズ(楽音以外の音)も「ドレミファ」として聴こえる。

自治体によっては夕方に子どもらに帰宅を促すチャイムを鳴らすところがあるが、あのチャイムの音程が微妙に違っていたり、サザエさんのエンディングテーマの初めの頃の音程と終わりの頃の音程が微妙に違っていたりがいちいち気になってしまう。

中には頭痛や吐き気、めまいなど深刻な症状に悩まされる人もあるらしい。

 

絶対音感は、初めに手にした音階を奏でられる楽器の音(調律)で決まるのではないかと思う。

わたしに関して言えば、聴こえた音と自分が思った音が半音ズレることがある。最初のピアノの調律が低めだったのだろうか。今のピアノはA=442ヘルツで調律してもらっている。

 

A=440ヘルツ(ピアノの鍵盤で言えば真ん中のドから白鍵で数えて6番目の音が1秒間に440回振動して出る音)に合わせて調律する場合とA=442ヘルツで調律する場合がある。コンサートホールは後者が多い。昔はC=528ヘルツだったらしい。今ではヒーリングで使われているようだ。遺伝子を修復するとか。YouTubeでも検索してみると結構出てくる。わたしもC=528ヘルツのチューニングフォーク(音叉)を持っている。四半世紀来の原因不明の左耳低音部難聴が治らないかなぁと買ったものだ。しばらくは寝る前などに聴いていたのだが今は埃をかぶって部屋の隅で眠っている。

 

楽器の調律の音は時代と共に高くなっている。速度も速くなっている。モーツァルトの『トルコ行進曲』(もともとはソナタのなかの一部。アレグロ・アラ・トゥルカ。トルコ風アイス、じゃなかった、トルコ風アレグロって感じ?)も今よりは低めの調律でもっとゆっくりと演奏されていたのではないかと思う。楽器や演奏家の技量が上がってきたことと、より強い刺激を求める聴衆とのせめぎ合いの結果なのだろうか。

モーツァルトの音楽も当時は「音が多すぎる」と不興を買っていたらしいがいつのまにか聴衆を虜にしていったという。

あの旋律をヘビメタギターでキュインキュインしながら早弾きしてもカッコイイだろなと思わせるところがモーツァルトだ。余談だが、カルディ(珈琲や輸入菓子などの販売店)でベートーヴェンの曲をサルサアレンジしたものが流れていた時はかなりの衝撃だった。

名曲と言われるものはそういうものなのかもしれない。だから何百年も残ってきたのだろう。

 

さて、絶対音感

絶対音感は楽器演奏に絶対必要かと言えば、なんとも言えない。

ピアノに関しては、調律師さんに調律してもらったピアノで楽譜を見て弾く限りはなくても何とかなると思う。楽譜が読めれば音は出せるからである。

弦楽器のように演奏者自身で音を調律しながら演奏するタイプの楽器であればあっても便利かもしれない。しかし、ピアノの「ド」が自分の楽器の「ド」と一致させられる場合に限られるかもしれない。音質の違いで分かりづらいこともあるようだ。

音楽の種類によっては絶対音感が邪魔になることもあるのではないかと思う。絶対音感はあくまでもクラシックやそこから派生した音楽の世界での話。

それぞれの民族音楽には独自の音階や音程がある。日本音楽(邦楽と言われるもの)も然り。言ってみればクラシックも西洋の限られた地域の民族音楽である。

「ピヒャー」とかコウモリも逃げ去る超音波を発する龍笛は音階は通常奏でない。奏でられない(能の笛方の一噌幸弘氏は龍笛でバッハの管弦楽組曲をやってしまう。初台のオペラシティで真ん前の席で聴いたときは圧巻を超えてもはや狂気の世界を彷彿させた)。

 

日本も戦前は絶対音感などというものはほんの一部の西洋音楽演奏家が持っていただけである。多くの人は自分が歌いたい或いは歌いやすい高さで自由に歌っていたのである。合唱の習慣もなく斉唱中心であったために特に不便はなかったのである。音痴、などと言われることなく楽しく堂々と歌っていたことだろう。いい時代だ。

明治期に西洋音楽をもとに学校音楽が形成されて行く。けれども本格的に日本国民に西洋音楽の音程を浸透させたのは戦後にNHKで始まった『みんなのうた』だと聞いたことがある。教化、と言ってもいいだろう。

そう、音がズレるくらいで「音痴なんだわ…」と思う必要はちゃんちゃらない。

チャイコフスキー絶対音感がなかったとか。

 

絶対音感より相対音感のほうか大切だという人もいる。

相対音感とは簡単に言うと二つの音を聴いてどちらの音が高いか低いかがわかる感覚である。もっと言えば、どの調性でも「ドレミ」で歌える感覚である。絶対音感の「ド」は「固定ド」、相対音感の「ド」は「移動ド」とか言ってた気がする。

確かに音の高低が判断できるほうが便利かもしれない。

 

タモリが「ドレミファソラシ」の音階を使ってで駅名当てクイズをしてたのをずっと前にテレビで観たことがある。

「ドレミファソラド」は高いド➡︎高井戸(京王井の頭線

「ドレミファソラドレ」はシも高いド➡︎下高井戸(京王本線) 

努力とやせがまん。

努力とやせがまんとはやっぱり違う。

 

努力は多かれ少なかれ報われる。報いが目にも明らかな場合も後で気づく場合もある。

一方、やせがまんは報われた試しがない。それどころか心身を疲弊させ潰しにかかる。

そんなふうに思う。

理不尽で窮屈な中でやせがまんを強いられていたり、みずから強いていると、肌感覚がなくなる。

肌感覚は心身を守るためのもの。

 

やせがまんからは潔く撤退。

撤退したことをしばらくもてあそんだのちはもう振り返らない。引きずらない。

淀んで硬くなった自分の内面がゆっくりとほぐれて浄化していく。

心配や不安を超える安堵感がある。

やがて本当の光が見えてくる。

 

やせがまんが限界を迎えたあの初夏のある日、逃げることを決めた。避難しよう、と。誰がなんと言おうと自分が壊されつつあるこんな危険なところからは避難しよう。自分を救い出してあげられるのは自分だけだ。

そう思って思い切った。

すでに迷いは失せていた。

思い切る瞬間というのは案外ワクワクしているのだった。いや、思い切ることを想像して手順を考えている頃からワクワクは始まっていたかもしれない。

あの日は青空が広がっていた。

平日の街をぼんやり散歩した。

通りかかったコンビニでサイダーを買って公園のベンチに座った。

しばらく味わったことのなかった無邪気な気持ちでサイダーを飲んだ。

素晴らしい解放感に包まれていた。

青い空を見上げながら、ああこれでやっと自分に戻っていけると感じた。

いままで辛い思いをさせて悪かったねと自分で自分に謝った。

そして随分と危ないところにいたんだなと実感した。

自分にとって本当に必要で価値のあるものがちゃんと見えてきた。

それは新しく見えたものではなく、今までも見えていたのにも関わらず幾度となく見えぬふりをしていたものだった。

見てはいけないものだと、取り立ててはいけないものだと他人の感覚やら常識的社会人の感覚(自分の勝手な思い込み)で判断してしまっていた。

そう、自分の中に既にあったんだ。

もうこれは一生をかけて大事にしていこうと思った。

 

やせがまんをしていた頃、自分にしては痩せていた。

今はぽっちゃりさん。

名実ともにやせがまんが板につかなくなっている。

喜ばしい限りである。