夏休みの「自由研究」という宿題が大変らしい。
そもそも「自由研究」が学校現場に現れたのは大正自由教育運動の頃に遡るらしい。
官製の教育に異議を唱えた教育者たちが私学を勃興したころだ。自由学園や玉川学園、成城学園、成蹊学園などだ。
1947年には義務教育下では教科化されたが五年ほどでなくなったらしい。
自分が小学生の頃、夏休みの宿題に「自由工作」というのがあった。
「自由」は好きだが「工作」は嫌いだったので、これほど不自由な自由はないなと思ったのを覚えている。
「自由研究」にしろ「自由工作」にしろ自由というものに対するイメージを悪くするためのオトナの画策なのではと思ってしまう。「自由」が苦手な人も増えてしまうのではないか、と。
好きなものであれば放っておいても自由に研究するし追求する。それを宿題という形で強制するのはいかがなものかと思う。
せめて自由研究は任意の宿題にすればいいと思う。
けれどもその場合「やってきた人の方が評価されるかも」「こういう研究をやっておけば評価がいいらしい」などとの憶測や忖度が生まれる可能性もある。そういう憶測や忖度の必要がない形で実行されなければならない。
宿題の候補をリストにしたものを作って、そのなかから各自が取り組む宿題を選ぶ方式もいいかもしれない。そのリストの中に「自由研究」をちりばめておけばいい。
高校の頃の音楽の実技テストは「自由表現」だった。どんな楽器でどんな曲を演奏しても良い、というものだった。工作は苦手だが、音楽表現の好きな自分には本当に楽しいものだった。
自由とはそういうことなんじゃないかと個人的には思う。
もちろん宿題のために嫌々やった自由研究が意外と面白くて新しい世界が開けた、ということだってあるだろう。だけどそれはかなり稀なケースではなかろうか。
「表現の不自由展」「自由研究」…自由について改めて考えさせられる。