マリア・ジョアン・ピレシュ(ピリス)のモーツァルトソナタ全集を聴き返したくなった。
自然にピアノの音を響かせている感じが、誰かに似ているなぁと思った。
そうだ、ジョアン・ジルベルトだ。
彼も声やギターを自然に響かせる。
まるで風が響かせているように。
ピレシュのピアノにも風を感じる。
ピレシュはポルトガル出身で今はブラジル(バイーア州)に住んでいるという。
ジョアン・ジルベルトはブラジル(バイーア州)の出身。
どうやらあの風はポルトガル語に吹いている風なのかもしれない。
マリア・ジョアン・ピレシュ(ピリス)のモーツァルトソナタ全集を聴き返したくなった。
自然にピアノの音を響かせている感じが、誰かに似ているなぁと思った。
そうだ、ジョアン・ジルベルトだ。
彼も声やギターを自然に響かせる。
まるで風が響かせているように。
ピレシュのピアノにも風を感じる。
ピレシュはポルトガル出身で今はブラジル(バイーア州)に住んでいるという。
ジョアン・ジルベルトはブラジル(バイーア州)の出身。
どうやらあの風はポルトガル語に吹いている風なのかもしれない。
夏休みの「自由研究」という宿題が大変らしい。
そもそも「自由研究」が学校現場に現れたのは大正自由教育運動の頃に遡るらしい。
官製の教育に異議を唱えた教育者たちが私学を勃興したころだ。自由学園や玉川学園、成城学園、成蹊学園などだ。
1947年には義務教育下では教科化されたが五年ほどでなくなったらしい。
自分が小学生の頃、夏休みの宿題に「自由工作」というのがあった。
「自由」は好きだが「工作」は嫌いだったので、これほど不自由な自由はないなと思ったのを覚えている。
「自由研究」にしろ「自由工作」にしろ自由というものに対するイメージを悪くするためのオトナの画策なのではと思ってしまう。「自由」が苦手な人も増えてしまうのではないか、と。
好きなものであれば放っておいても自由に研究するし追求する。それを宿題という形で強制するのはいかがなものかと思う。
せめて自由研究は任意の宿題にすればいいと思う。
けれどもその場合「やってきた人の方が評価されるかも」「こういう研究をやっておけば評価がいいらしい」などとの憶測や忖度が生まれる可能性もある。そういう憶測や忖度の必要がない形で実行されなければならない。
宿題の候補をリストにしたものを作って、そのなかから各自が取り組む宿題を選ぶ方式もいいかもしれない。そのリストの中に「自由研究」をちりばめておけばいい。
高校の頃の音楽の実技テストは「自由表現」だった。どんな楽器でどんな曲を演奏しても良い、というものだった。工作は苦手だが、音楽表現の好きな自分には本当に楽しいものだった。
自由とはそういうことなんじゃないかと個人的には思う。
もちろん宿題のために嫌々やった自由研究が意外と面白くて新しい世界が開けた、ということだってあるだろう。だけどそれはかなり稀なケースではなかろうか。
「表現の不自由展」「自由研究」…自由について改めて考えさせられる。
近所の本屋にて。
素肌にベスト、ボトムスはハーフパンツのおっちゃんと若い女子店員さんの会話。
お:「地図ある?」
店:「京王ストア(本屋の近くのスーパー)はご覧になりましたか」
お:「いや。地図…」
他の用事もあったのでここまでしか聞かずに店を後にした。
あの店員さんは何を思って「京王ストアは…」と言ったのだろう。
ん〜…
あ!
そうか!
「地図」と「チーズ」か!?
店員さんは「チーズ」と思ったのか!
チーズは本屋にはそうそうおいてあるもんじゃない。
それとももはや「地図」は死語になりつつあるのだろうか。今や「マップ」と言わなければ通じない世の中になっているのだろうか。
おっちゃんは無事地図にありつけたのだろうか…
この夏はCDをたくさん買った。
二十枚弱になるかな。
その中の一枚。
Bill Evansの『From Left to Right』。
今までビル・エバンズのピアノのトリオやデュオやソロを聴いてきたので、ローズのエレピをどうやって弾くのだろうととても興味深かった。
ピアノとエレピ、スタインウェイとローズを行ったり来たりする。
ピアノで響かせるコードとローズで響かせるコード、ピアノで歌うフレーズとローズで歌うフレーズはやはり聴こえ方が違う。
エレピは音色の変化があまりないので素材がはっきりする。どんな音を弾いているかが聴こえやすい。
ピアノは音色がエレピに比べると多くかぶさってくるのでニュアンスが伝わりやすい。
ピアノでは雰囲気のでる和音やフレーズをエレピで弾くとまた感じが変わる。シンプルになる。
エレピでなければ出ない味わいもある。とくにローズなどはかなりアコースティック寄りだと思う。
スタインウェイでもローズでもビル・エバンズはビル・エバンズだった。
このアルバムを「イージーリスニング」と揶揄を込めていう人もいるらしいが、個人的には嫌いじゃない。
聴きやすいがビル・エバンズのエッセンスがしっかり凝縮されている。なのでついつい何度も聴いてしまう。うっとり。
オペラシティギャラリーでジュリアン・オピーを観てきた。
アクリルとかLEDなどのつるりんとした画材。つるりんとした線。
色は種類が多い。
川もこんな風になる。
とりちゃんはこんな感じ。
ちゃんとフンもしていた。
音を立てて動いているわけではないのに、音をどこかで補完しながら観ている自分に気づいた。とても無意識のところで。
未来はどんどんツルツルしていくんだなぁと思った。
昭和と平成の身の回りをみてもそんな感じがする。
このままツルツル化が止まらないんだろうなぁ。
ツルツル化の過程でも色と音は残るんじゃないかな。
形はどうかなぁ…残らないかもしれないなぁ…
まあ、視覚とか聴覚を持つものが存在し続けたとしたらの話だけど。
そのころには頭痛なんかもなくなっているのだろうか。
LEDを眼鏡をかけて見たせいか、頭痛がしている。
やれやれ。
未来は大変だ。
コンパクト・ディスクなるものが世に出始めたときの衝撃は忘れられない。
「わ、パチパチしない!!」
そう、音楽を聴いているときにパチパチが入らないのだ。
これで安心して音楽が聴ける、と思った。
レコードは傷や埃が針につっかかるといちいちパチパチいうのだった。
音楽を聴く時、それがもう気になって気になって仕方なかった。新品のレコードでもパチパチが入るのだ。レコードクリーナーなどでも埃は取りきれない。静電気が起きたら余計に埃が付いてしまう。なのでパチパチ音が全滅できない。
「あ、次のところ、パチパチ音が入るんだよな」
「休符なのにパチパチ音が入るから休符じゃなくなっちゃうんだよな」
「いいフレーズなのにパチパチ音が邪魔してくる」
など、ドキドキハラハラしながらの音楽鑑賞になってしまうのが常だった。
人の話は聞こえないふりを出来るのに、このパチパチ音だけはどうにもならなかった。
そんな悩ましいパチパチ音からわたしを解放してくれたCDはそれはそれは天晴だった。音の力はレコードの方が強いように思えたが、パチパチ音からの解放の安堵感はそれを凌いだ。
以降、手元の音源はすべてCDになり今日に至っている。
先日新宿のタワレコに行ったら、ワンフロアがすべてレコードに埋め尽くされている光景を目の当たりにした。
わ…
ここには確かクラシックとかニューエイジとかのCDがふんだんに置いてなかったっけか?
むむむ…
確かに老若男女の間でレコードが復活しているとは聞き及んでいたがここまでになっているとは…
「針を落として音が出るのがいい」
「音色が厚い」
「アナログでしか聞けない音がある」
などなど評価は高い。
確かにCDはデジタルデータだ。
でもパチパチしないんだよ、パチパチ。
寿命を全うするまではCD及びCDプレイヤーが存在することを祈ってやまない。
…とかいっちゃって、レコードが主流になったらターンテーブルとか買っちゃって「やっぱレコードだよね!」「このレコード、ジャケ買いしたけど当たりだったよ!」「針はナガオカだよね」とかやり始めるのだろうか。
こんなことばかり考えていられる平和が続くことを祈ってやまない。