としまえんが今日で閉園。
閉園のニュースを昨日辺りから流していた。
「この味がとしまえんの味」とラーメンをすする人。
「今日の日付が入っているこのチケットを見ると涙が出てきてしまう」と入場の列に並んでいる人。
「小さい頃からこのメリーゴーランドに乗っていたんです」とその当時の写真を片手にその時と同じ座席に座る人。
「エルドラド(メリーゴーランド)をずっと整備してきたんだよ」という係の人。
それぞれの人の中にあるそれぞれのとしまえんへの思いを感じる。
…と、ここまで書いた時点でもう目はウルウルしている。
ありがとう、としまえん!
いままでお疲れ様だったね…
という気持ちが自然と湧いてくる。
ああ、また泣けてきてしまう。
なくなってしまうのは本当に悲しいよ。
本当になくなっちゃうんだね、としまえん…
それにしても不思議だ。
としまえんに行った記憶はない。
それ故、小さい頃から馴染んでいたという思い入れもない。
なのに泣けてきてしまう。
泣けて泣けて仕方がない。
多分これが「よみうりランド」だったらこんな感傷的にならないだろう。
「跡地は何になるのかな?」くらいドライに受け止めるような気がする。
何が違うのだろうか…
おそらくその秘密は「えん」にあるのかもしれない。
としまえん、の「えん」に。
「ランド」でも「パーク」でもない。
「えん」。
またさらに「としま」という地名を連想させるものが付随していることもさらに拍車をかけているかもしれない。
もし仮に「よみうりランド」が閉園してもここまでの感傷は起こらないのではないかと思う。としまえん、よりはるかに行った思い出はあるにもかかわらず。
ひとの感情のポイントは訳がわからない。