忌野清志郎と坂本龍一の共通項に「都立高校出身」を挙げている人がいた。「都立高校」と言っても、まだ自分が生まれる前の学生運動の時代の都立高校だ。
自分が都立高校に入学したのは1987年(昭和62年)。学生運動の時代からは随分経った頃だ。
入試の当日、自分の受験会場の教室には20近い空席があった。
主には私立が決まって受験を棄権した人たちの席だ。
当時はバブル全盛期だったこともあり、私立人気となっていた。私立は大学までどこも偏差値が鰻登りで「偏差値バブル」とも言われていた。
自分が入学した都立高校は制服も校則もない学校だった。今思えば、これも学生運動の頃の遺産を恩恵として受けていただけなのかもしれない。
「クラスは偶然の人の寄せ集めなんだから、一致団結なんて無理なんだよ」と二年次の年度初めのホームルームで担任になった先生が芯のない声でふわふわと言い始めた時にはゾクゾクと鳥肌がだった。
そうそうそういう言葉をそういう言い方で大人から聞きたかったんだよ、と。
これまでの公立の義務教育にうんざりしてきた耳には福音のように響き救われたような気分になったことを今でも覚えている(こういう先生を増やして行かなければなぁと思って都立高校の教員を目指してみたが、バブル崩壊の影響も重なりすんでのところで手が届かず…笑)。
医者にも自分にも手に負えないほどの精神不安定期だったが、月に数日程度のお休みをとりながらも学校の雰囲気のおかげで安心して通えた(そんなギリギリの状態で部活も受験勉強もよく出来ていたなぁ…)。その休みはやがて一部のクラスメイトにより「お疲れ休み」と命名され、周りでもお疲れ休みを取ることがちょっとしたブームとなった。そんなふうに何かと適度な距離感で良くも悪くもいい加減な雰囲気が本当に心地のいい場所だった。みんなでガッツリまとまってサイコー!って感じで義務教育を過ごしてきた人たちには不評のようだったけれど、自分にとっては幼稚園から大学までの中でダントツの居心地だった。
そんな母校も、今や「標準服」という名の制服を着た生徒も多く見かけるようになってきた。校則もできたのかな…
先代の卒業生や教員たちがいろいろと経た後に獲得されたあの「緩さ」だったのだろうとあの頃には思い至らなかった。
空気のように当たり前にあり続けると思った「緩さ」に対する甘い認識に今更ながらに気付かされる。
知性や寛容、多様性やそんなものに基づいた緩さだったのかな。
そんな「緩さ」が時代遅れにされる日が来るとはな…
「緩さ」が苦手な人って意外に多いのかもしれないな。
緩さは時としてまわりくどさやもどかしさやちょっとした行儀良さ(忍耐)を伴うものだから、限られた寿命のある生物には不向きなのかもしれない。
でもなぁ…
なんだかなぁ…
ねぇ…