遅まきながら、忌野清志郎の凄さに気付いた。
たまたま見ていたBSの番組で忌野清志郎の「放送事故」の話をしていて、その動画をYouTubeで見てみておおっ!となった。
タイマーズ、という名前は大学の頃に聞いたことがあったが音楽を聴いたことはなかった。
これだったのか、タイマーズって…
原発音頭。
サリン。
long time ago。
北朝鮮…
などなど次から次へとすごい曲が出てくる。
またzerry(忌野清志郎)の声が本当にいい。
坂本龍一と金平成紀が忌野清志郎について話している動画も出てきた。
それがまた興味深い。
金平さんが「(清志郎は)炭鉱のカナリヤ的なところがあった」と言っていたのが印象的だった。
みんなが言いたがっていることをとても伝わるように歌っていた、と。
坂本龍一も「言葉とメロディが一体化していた」と。
「僕がいなくなったらこういう歌を歌うひとはいなくなる」と清志郎本人が言っていた。
事実、そうなった。
坂本龍一と金平成紀の対談の動画は1990年代のものだ。
その中で「なぜこんなにものが言いづらくなってきたのか」
と盛んに言っていた。
もうこの時期からそうだったんだ、と知った。
全ては1980年代がピークだったのかもしれない。
バブル崩壊とともに精神的な豊かさも崩壊していったのだろうか。
また2080年まで待たなければならないのか。
坂本龍一も金平成紀も1960年代の都立高校の独特なカルチャーの雰囲気(アメリカ的、という言葉で表現していたと思う)についても話していた。このお二人も、そして清志郎もその当時の都立高校生だったという。
大学生が政治的な雰囲気の中にどっぷりだったのとは違ったものがあった、と。
わたしは1980年代の都立高校生だった。
校則も制服もなかった。
「たまたま集まった人間がひとつにまとまるなんて不自然だ」と二年次のクラス替えの日の最初のホームルームで新しい担任が言った。
こんな言葉が担任から聞けるなんてびっくりした。
鳥肌が立った。
ずっと聞きたかった言葉だったからだ。
小中高とそれまで出会ってきた担任は「クラスはまとまれ」「団結せよ」というメッセージを事あるごとに繰り返していたからだ。
この頃はまだ比較的リベラルな雰囲気が残っていたのだろうと思う。
私大に進学した時に「高校よりなんか窮屈だな」と思った覚えがある。
けれどもそんなリベラルだった母校にも今は制服が出来たらしい。校則だってきっと出来てしまったことだろう。
そういう流れに転向するのはあっという間だ。
まるで形状記憶のように。
今、忌野清志郎がいたらどんな歌を世に送り出していただろうか。
黙ってはいないだろう。